月光ノ仮面
(C) 2011「月光ノ仮面」製作委員会
「月光ノ仮面」という映画を観てきました。 板尾創路さんが、監督・脚本・主演をしています。
あらすじは、
戦後2年が過ぎた昭和22年のある晩、擦り切れた軍服を身に着けた男(板尾創路)がふらりと町に現れる。彼はいきなり寄席小屋に入って高座に上がってしまったため、噺(はなし)家たちにつまみ出されてしまう。そこに偶然弥生(石原さとみ)が通りかかり、その男こそが戦前に一世を風靡(ふうび)した若手落語家で、彼女のいいなずけだった森乃家うさぎだと明言する。(シネマトゥデイ)
前作の「板尾創路の脱獄王」と比べると、わからないことだらけの映画でした。 感想を書くときは、なるべく良いことをみつけて書こうと思っているのですが、今回はどうしようかと、観たすぐあとでは思いました。 あー。
時間が経ったからといってわかるものではないのだけれど(笑)、以下、もう少しあれこれ考えてみます。 ネタバレをすると思うのでご注意ください。
要所要所に何かを暗示することがあるのだけれども、それが最終的に何を示しているのかわからないのです。 思い出す感じで羅列してみます。
月がいつでも満月、映る池には魚が浮かぶ。
荒野を歩いて田んぼ横の道を村に向かって歩いて町に着いて寄席に入る、二人とも。
追い出そうとする騒動を見て笑うお客さん。 以下、落語ではない、そんな騒動を見て笑うお客さん。 段々と物騒になってきて最後の乱射で大笑い。
時間軸がわからないけれど、太った遊女さんが、まず泣いて登場、そのあとは二人で穴掘り。
途中で、ドクター中松さんがタイムトラベラーで登場、穴掘りの最後でも登場。
二人は似ていないのに間違える。
師匠が日付や持ち物を間違える、彼女が食事の数を間違える。
車引きさんの言動、最後に本物さんが傷なしでその車に乗る。
こうやって書いても、何がなんだかでしょ(笑)。
そうして、その大元になっている「粗忽長屋」という噺。 あらすじを公式サイトから引用します。 もう少し詳しいあらすじはウィキペディアでも読むとよろしいかも。
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個展落語の有名な演目。
粗忽とは「あわて者」のこと。
浅草の観音様にお参りにいった八が、親友・熊が行き倒れの死体となっていることに驚き、長屋に戻ると、熊は呑気に生きていた。
やがて死んだはずの熊が、自分の死体を抱きかかえる。
「ここで死んでいるのは確かに俺だが、それを見ているこの俺は、いってえ誰なんだー」
というシュールな展開。
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私はこの噺を聴いたことがあるので、内容は漠然と覚えていました。 思い込みであわて者ということを考えると、映画の彼女は彼に強く帰ってきて欲しかった。 だから、お守りというきっかけだけで彼が帰ってきたと思い込みたい、思い込んだ、という流れはわかります。
SFにしちゃうのなら(笑)二人のパラレルワールドとしてしまい、それが重なってしまったことによる矛盾、日付や荷物や数を間違えることで表して、極めはドクター中松さんで。
もう一つは全ては幻想だった夢だった作戦(笑)。 最後のカットだけで判断すれば、本物の森乃家うさぎしか初めから居なくて、全て彼の想像の世界の話とする。 本当は落語なんかしたくない、だから声を出なくして、お客もみんな殺してしまえー。 映画のセーラー服と機関銃の最後のシーンと合致して、思わず「快感」って言うのかと思ったくらい。
うさぎさんの本名が岡本太郎というところが、芸術は爆発だーという終わり方と合っているといえば合っている(笑)。 さらに、ほんとうは本物の岡本太郎さんを登場させたかったのだけれども、その変わりにドクター中松さんを登場させたという可能性もあるかも。 えー。
戦争には悲惨さや不条理さがあって、その結果の現実も不条理だということかも。 などなど、いろいろ考えても正直わかりません(笑)。 わからなくても、感覚的によい映画とか合う映画ってあると思いますが、今回はしょうじきごめんなさいでした。
あ、石原さとみさんはかわいい、前田吟さんは落語家さんみたいでよかったです。
死んでいる俺は俺だが生きている俺も俺だしわからない俺 (天国ななお)
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